ストーリー
建築家 槇文彦氏の手による「ヒルサイドテラス」は、
その建築空間とそこに展開されるプログラムによって都市文化を形成してきました。
ヒルサイドテラスについて
建築家 槇文彦氏の手による「ヒルサイドテラス」は、その建築空間と、そこに展開されるプログラムによって都市文化をつくり、それは「代官山」の成立に深く影響を与えてきた。
ここでは、数々のイベントが開催されている。1982年から始まったSDレビューは新進気鋭の建築家の登竜門となり、「ヒルサイドギャラリー」は国際的アーティストの輩出に貢献してきた。
1987年「ヒルサイドプラザホール」の完成によりヴァイオリニスト原田幸一郎氏を中心とするヒルサイドプラザ・コンサートの開催など音楽活動が加わり、さらに1992年のヒルサイドフォーラムの誕生はこれら文化的生活の拠点として、その位置を決定的なものとした。
これら「代官山ヒルサイドテラスにおける文化活動」に対し、1998年度メセナ大賞が授与された。
ここでは、数々のイベントが開催されている。1982年から始まったSDレビューは新進気鋭の建築家の登竜門となり、「ヒルサイドギャラリー」は国際的アーティストの輩出に貢献してきた。
1987年「ヒルサイドプラザホール」の完成によりヴァイオリニスト原田幸一郎氏を中心とするヒルサイドプラザ・コンサートの開催など音楽活動が加わり、さらに1992年のヒルサイドフォーラムの誕生はこれら文化的生活の拠点として、その位置を決定的なものとした。
これら「代官山ヒルサイドテラスにおける文化活動」に対し、1998年度メセナ大賞が授与された。
「HILLSIDE TERRACE」
槇文彦 槇総合計画事務所
ヒルサイドテラスは住居・店舗・オフィスからなる複合建築で、1967年から1992年まで数期に分けて段階的に建設されてきた。このプロジェクトは、都市開発の進行過程を示すひとつのケーススタディとなっているが、各期は、それまでの教訓と都市の拡大に伴う新しい要求に従って変化してきており、その点において都市と建築に対する考え方の四半世紀に渡る変容の記録ともいえる。
ヒルサイドテラスの敷地は、今でこそ東京都内のファッショナブルなエリアとして知られる代官山にあるが、30年前は緑の生い茂った細長い傾斜地で、朝倉家が所有する建物が数棟あるだけだった。朝倉不動産は土地を活用するに当たって性急な開発を望まず、むしろ長期に渡り快適な場所として保たれるよう、環境の変化に徐々に適合させていくことを望んだ。われわれの事務所はそれに従い、住居と商業を中心とした空間へ開発していくためのマスタープランを、数期に分けて作成した。
当初、敷地は最高高さ10mと容積率150%に制限された第一種住居専用地域であった。しかし重要な地域を結ぶ交通量の多い通りに面しており、用途地域上の特別な許可を必要とはしたが、店舗やレストランを街路レベルに設けることによって上に述べたような環境をつくり上げることができるように思われた。それぞれの時期で平面や構法は変化したが、デザイン上のテーマや原理は全体を通じて維持された。われわれは、第一に内部空間と外部空間におけるスケールの暗示的な継続、第二にファサードと街路空間の相互作用に関心を持ち続けてきた。公共の歩行者空間はアクティビティを高める場であり、その周囲に集まった店舗群への移行空間としても機能する。さまざまな幅の広い歩道、プラットフォーム、階段がヒルサイドテラスに広々としてくつろいだ感じを与えるのに果たした役割は少なくない。一方、代官山の性格を保つためには、2階より上にある住居部分のプライバシーと独立性に対して注意を払うことも忘れてはならないことであった。
ヒルサイドテラスは、近代的構法と、より伝統的な日本のプランニングの手法、すなわち、与えられた敷地の特殊性と限界を考慮し尊重することを統合する試みである点で一貫している。そこにはかなり歴史的な場所も含まれている。それは古代の古墳の上にある小さな神社で、東京が小さな一漁村に過ぎなかった7世紀頃に代官山に人が住んでいた証拠となっている。段階的に開発しようと考えたとき、場所の持つ精神(ゲニウス・ロキ)を守っていくことはほぼ暗黙のうちに了解されていたが、そのためには、建物の規模が大きくなればなるほど長期的な変化を考慮する必要性が増していった。
建築家がこのようなプロジェクトに携わる機会はそうしばしば訪れることではない。クライアントがこうした実験的な開発手法に対し強い関心と支持を持っていたことは、われわれにとってたいへん幸いであった。
ヒルサイドテラスの敷地は、今でこそ東京都内のファッショナブルなエリアとして知られる代官山にあるが、30年前は緑の生い茂った細長い傾斜地で、朝倉家が所有する建物が数棟あるだけだった。朝倉不動産は土地を活用するに当たって性急な開発を望まず、むしろ長期に渡り快適な場所として保たれるよう、環境の変化に徐々に適合させていくことを望んだ。われわれの事務所はそれに従い、住居と商業を中心とした空間へ開発していくためのマスタープランを、数期に分けて作成した。
当初、敷地は最高高さ10mと容積率150%に制限された第一種住居専用地域であった。しかし重要な地域を結ぶ交通量の多い通りに面しており、用途地域上の特別な許可を必要とはしたが、店舗やレストランを街路レベルに設けることによって上に述べたような環境をつくり上げることができるように思われた。それぞれの時期で平面や構法は変化したが、デザイン上のテーマや原理は全体を通じて維持された。われわれは、第一に内部空間と外部空間におけるスケールの暗示的な継続、第二にファサードと街路空間の相互作用に関心を持ち続けてきた。公共の歩行者空間はアクティビティを高める場であり、その周囲に集まった店舗群への移行空間としても機能する。さまざまな幅の広い歩道、プラットフォーム、階段がヒルサイドテラスに広々としてくつろいだ感じを与えるのに果たした役割は少なくない。一方、代官山の性格を保つためには、2階より上にある住居部分のプライバシーと独立性に対して注意を払うことも忘れてはならないことであった。
ヒルサイドテラスは、近代的構法と、より伝統的な日本のプランニングの手法、すなわち、与えられた敷地の特殊性と限界を考慮し尊重することを統合する試みである点で一貫している。そこにはかなり歴史的な場所も含まれている。それは古代の古墳の上にある小さな神社で、東京が小さな一漁村に過ぎなかった7世紀頃に代官山に人が住んでいた証拠となっている。段階的に開発しようと考えたとき、場所の持つ精神(ゲニウス・ロキ)を守っていくことはほぼ暗黙のうちに了解されていたが、そのためには、建物の規模が大きくなればなるほど長期的な変化を考慮する必要性が増していった。
建築家がこのようなプロジェクトに携わる機会はそうしばしば訪れることではない。クライアントがこうした実験的な開発手法に対し強い関心と支持を持っていたことは、われわれにとってたいへん幸いであった。